昭和41年06月30日 朝の御理解



 確かに甘木の初代の、安武先生のお話の中にあったと思うのですけれども、それは皆さんもご承知でしょうけれども、6月の30日は昔は大ばらい式と申しておりました。半年の罪穢れをはらうというわけなんですよね。その当時、大ばらい式があっておった当時、現在では、あれはどうも、お道のお道の生き方ではないというので、大払い式というのは取りやめになりましてね。
 それでもやはり昔からそんな行事がそういうお祭りがあっておりますから、一年中のお詫びのお祭りとかお礼のお祭りとか、その形式が残っております。やはりあの、それでも大払い式とは申しません。その、以前その大払い式というておった時分のまあ、お話でございますよね。ある先生が、先生に向かってから、先生あの、大払い式とは大払いを受けるということは、どげなふうな効果があるもんだろうかと、大払いを受けたらどんなことになるのかと、してそのお尋ねしたところ。
 安武先生が仰ったということです。「そうな、うけんよりか受けたほうがまあ、ほうがまあよかろう」と仰ったそうですね。大したことはなかと。大払いを受けたからというて本当に罪穢れが払われるのではない。けれども、受けんより受けたほうがよかろうと、いわれる程度に、しか当時、安武先生も大払い式というものに重きをおいておられなかったということが分かりますですね。
 それはそうですね。お道の信心の生き方からいえばですね。ただ、大払いを受けたからというてなんというですかね、ありがたい経文をぱらぱらと頭の上でこうしてから、病気が治るとかそれでもやはり、その、そういうありがたい、お経文というもので、頭の上でバラバラバラとあれはなんとかといいますね、あれをしてもらうと、(?)お払いを受けんよりかまあいくらかよかろうと思う。
 そこで皆さん日々の自分の信心の中にそれを思うのですけれどもね。さあ皆さんが一生懸命祈らなければおられません、願わねばおられませんから、願いもすれば、お願いもなさる。どうぞ商売の繁盛のおかげを頂きますように、家族中が、無事、円満に、大難を小難、小難を無難にと、ね、どうぞ、家内が子供がと、というて願うのは私は丁度その、昔の大払い式の大払いを受けるようなものではなかろうかとこう思う。願わんよりかよかくらいなこっじゃなかろうかと思うですね。
 願わずにはおられんから願うのですけれども、ね、願わんよりかよかかもしれません。そういう例えば、まあいうならば神様の働きとその事に対しては希薄なもの、お払いを受けるということ、ね、私は、様々な願い事を願うということはそのくらいなことだと思う。ね。いかに一生懸命願うたところでその位なものじゃなかろうか。どこまでも私は助かるということは自分自身の心から、助かっていく以外にはないと。
 自分自身の心の助かりが願う以上のおかげに。例えば私で言うなら、子供であろうが家内であろうが、御信者さん方であろうが、ね、助かっていかれるというのである。私共が朝から晩まで、ずっと、信者のことを祈りに祈り願いに願っておる。願わなおれんから、願いもする祈りもしますけれどもです。それは例えば大祓いをするようなものじゃなかろうか。大祓いをするというくらいのものじゃなかろうか。
 皆さんも願わなければおれないから願うのですけれども、それは大祓いをするというものではなかろうか。五十歩百歩あんまり変ったこっじゃないです。お道の信心は例えば大祓い式がお道の信心のあり方ではないというようにです、願うというのはお道の信心のいわば、本当いうたらあり方ではないと。ね。どこまでも本心の魂を磨くものであり、日々の改まりが第一であり、いや自分自身の助かりを願う以外にない。
 家内じゃない子供じゃない信者じゃない。私でいえば私自身が真実助かって行く為に、私が磨かねばならないのであり、私が改まなければならないのである。私が本気で修行をしなければならないのである。その私の助かりがです信者の助かりになるのです。家内子供の助かりになのであり。それを反対にですどうぞ信者が助かりますように家内が子供がといかに願ってもそれは願わんよりかよかくらいの事じゃなかろうか。
 そりゃ甘木の親先生が、おっしゃった様に、そうのう、それはお払いを受けんよりかよかろうという、その裏というのはです、お払いを受けるということよりも、自分自身の心のそれを祓えと。自分自身のその、おかげを受けられない元、それを祓えと。それを改まれと。それを美しくしていけと。それを改まって磨いていけと。いう、私は裏があるのだと私は思うのです。
 家内がもうちっと信心になってくれるとよいですけれども、主人がもうちっとあり方を変えてくれるとよいですけれども、そう思うから願わずにおれんのです。主人のことだって家内のことだって、子供のことだって。けれどもそれでは大した効果はないということ。それがが例えば皆んなあればあるほどにです、自分自身が愈々助かって行く事の為の修行とさせてもらい、ね、自分自身が本気で、自分自身がそういうどういう中にあっても、助かっていけれると、助かっておれれる、自分が喜んでおれれる。
 自分が安心して拝めれるそういう境地を目指してです、私自身が信心に、いわゆる信心ということは改まりに磨くということにです、本気で精進する以外に無いと。その心正す祈らなければおられんのであり、縋らなければおられんのであり、やはりお払いを受けなければおられんのであり、祈りの言葉となってどうぞ、ああなりますように、こうなりますように、いかに、ああなりますようにこうなりますようにというて願うてもです、願わんよりもよかというようなものよりかです、ね、願わんでもおかげを下さる道があるのですから、お道の信心はそれなんだ。
 夕べも皆さんにその事を聞いてもらったのですけれども、先日金光の、金光様のお子様の中に金光真整先生という方がおられるのです。三代金光様の時代に金光様のいつもお手を引いておられる、目がねをかけておられる金光様です。あの方が一番金光様のお気に入りの方だろうと、もういつも、(?)思うております。最近はあの御本部の金光家のちょっと上にあのご新築になっておられますね。見事なお家ができております。その金光真整先生が、( ? )熊本教会の甥子さんにあたられる同時に、西六の明神さまですね、高橋富枝先生のところの曾孫くらいにあたられる方だそうです。
 今の万野先生の熊本の万野先生という方の弟さんか兄さんかがあちらに養子にいっておられたんだそうですけれども、そして、出られたそうですけれども、その間にできられたお子さんらしいです。もう相当年配のお方らしいですけれども、その方が今度教会長として決まったそうです。それでそんなことなんかで金光真整先生とは非常に心安いなかですからあちらに、一晩泊まりで見えられたそうです。 
 それで、信者みんな集まりましてから、座談のようにして、金光様のお話を頂いたという時に、金光様が仰ったそうです。「信心とは我が心が神に向かうというのを信心でございます」ということです。信心とはわがこころが神に向かうのを信心というのじゃと教祖様は教えておられる。ところが皆さんの場合は、信心とは、我が心がおかげにばっかり向こうておるからおかげになりませんちいわしゃったそうです。
 どうですか皆さん。ね、このことからいうてもわたしのいうことがわかるでしょうが。ね、どうぞ、子供が楽になりますように、家内が信心になりますように、商売が繁盛いたしますように、ね、我が心がおかげにばっかり向こうておるからおかげにならんとおっしゃる。教祖の神様がはっきりおっしゃっておられる、信心とは我が心が神に向こうていくのを信心というのですと。神に向かわずにおかげのほうに向いておりますからおかげにならんとおっしゃる。
 そのおかげにならんとこう断言するわけじゃないですけれども、それはちょうど、6月30日の、お払いを受けるというくらいのことです。いわゆる願う、お取次ぎを頂いて、おかげを受けておる事だけは間違いないですけれども、それは本当の意味おいてのおかげでしょう。本当の意味においてのおかげというのは、実体私自身私自身が大きくなっておかげが大きくなる。私自身が美しくなっておかげも美しいおかげになってくるです。その、大きゅうなるために豊かになるために、美しくなるためにです。
 私共が信心をさせてもらうと言う事がです、我が心が神に向かうのです。今日も私共、皆さんご存知でない方もあるかもしれませんから、今でもやっぱり教会に対するしきたりがあるもんですから、親教会でもこんなものだされるんですよ銀座あたりでは何何祭りといったようなことをするのでありましょう。こういう風にこう名前を書いてですよ、ね、下に年を書いて、してこれをその(?)で払うておるわけなんです。
 これでですね、例えば私共が半年間の犯してきた罪穢れが払われるとするならばこげな楽ことはないですよね。ならばできるだけもう半年間でピシャッと払うてもらう。ね、けれどもやはり甘木の親先生が仰るように祓わんよりもよかと仰る。お払いを受けんよりかはよかと。ね。私は現代的にです、もういっちょあの、交通事故のなかごたる大祓いば椛目で始めたらよかごたるね。自動車の番号、番号をここに書いてからですね、こう自動車のようにしますたい。
 これば。内の自動車は、自動車の番号ですか、あれでも書いて人間の名前よりかです、人間よりか自動車のほうが大事じゃ。もう自動車でやられるならいっぺんでがばりやられる交通事故のないごと大祓いをするそれでそんならやっぱ多かろうち思うですね。最近では交通事故関しては神経をとがらせてあるのですから。もう自分一人のことは問題なか。ね。だからまあ現代的な大払いになれば、そういうことになる、それでもです、やはり祓わんよりかはよかと。ね。
 その人の強力な祈りというものがあればです、確かに、お払いを受けた自動車だけは、無事息災でおかげを受けられるかもしれん。それは祓う人の力があればですよ。ね。けれども、それではです、ね、祓う人の力があってから、お払いを受けたのではです、受けんよりかよかというくらいなことでしょうが。それは、お払いをする人の力があり徳があればです、その人の祓うた人のいわば、あー、顔に対してでも神様おかげをくださるのですから、お取次ぎを頂いて助かるというのはそういう意味なのです。
 けれども、お道の信心はそういう意味ではそういう事じゃないって。ね。我が心がおかげにばっかり向いている。心からです、本当に自分の心が信心に向かわせて頂くということ。ね。どうぞ、商売繁盛が願わにやおられんなら、子供が言うことを聞くようにと思うなら、家内が子供が信心になるようにと、あれがもうちっとあああってくれというばってんと思うなら思うほどです、私自身がそういう中にあっても助かっていけれる道をいよいよ精進していく以外にはありません。
 皆さんが毎日せっかく、お参りなつておられる参らんよりかよかね拝まんよりかよか。願わんよりか。そりや祈ったほうがよいくらいな、私は希薄な薄い今みたいなお参りをなさったのでは馬鹿らしい。いよいよ、これなら間違いがない。これに、極まったとお道の信心は。それはどう言うことかというと私自身がです、子供ではない、商売ではない、家内じゃない、主人じゃない、ね、私自身が真実助かる事のためにです、我が心が神に向かわなければいかん。
 我が心が神に向かうということはです、私がいよいよ、改まらなければいかんのであり、磨かないかんのであり、いよいよ、本気でその事のために、修行さしてもらわなければ、精進さして貰わなければならんという事。ね。そこには例えば願わんでも頼まんでもおかげが頂けれるというのがお道の信心の、システムなんです。決まりなんです。天地の親神様と金光大神のお約束はそれなんです。願う氏子におかげを授ける。理解申して聞かせとこう仰る。そのことの理解を受けるのです、私共は。ね。
 その理解を通してのおかげを、私共は受けていかなければならんのです。ね。理解をとうさず、ご理解を頂いても、ご理解を自分のものにしようという、精進をしなかったらです、それではちょうどお払いを受けておるような、信心になるのじゃないかと。今日は私は、そのだいたいいうなら、6月30日の、大払い式のお祭りを、今は大払い式とは申しませんけれども。
 そういう、お祭りがです、ね、せんよりかよか払いを受けんよりかよかと、いわれたのと同じようにです、私どもがいくら願うても頼んでも、さかたんぼ、打ったところでです、おかげにならんじゃない。そのさかたんぼ打てば打つがと、いくらかあるけれどもそれが、払わんよりかよかと、いう程度のおかげに過ぎんのだと、それでもそのさかたんぼうつ心にです。
 、自分自身が、いよいよ謙虚に成るために、自分自身を本当にわからせてもろうて、詫びぬかせてもらい、改まりぬかせていただき、ね、限りなく美しくならせて頂く事に、精進させてもろうて、限りなく磨いていくということにです、精進の焦点をおかなければです、せっかくの、お互いの信心がです、お参りが修行がです、ね、おかげのほうにばっかり向いておるから、おかげにならんというような事になったのでは、馬鹿らしいのじゃないかとおもうですね。
   どうぞ。